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1905年8月31日、サンフォード・マイズナー氏は毛皮商人ハーマン・マイズナーの家に生まれた。 そしてエラスムス高校、ダムロッシュ音楽学校、シアターギルド演劇学校を経て、映画「欲しいものは分かっていた」のエキストラでデビューし、25歳の時にリー・ストラスバーグ、ステラ・アドラーやエリア・カザン等と供にグループ・シアターを興した。 グループ・シアターはモスクワ芸術劇場のコンスタンチン・スタニスラフスキー氏の演技法「感情的記憶」を用い、1931年から1941年までの10年間、野心あふれる社会劇をブロードウェイで次々に上演していた。 マイズナー氏はそこで、「ゴールデン・ボーイ」、「黄金の鷹男」、「目覚めて歌え」、「失われた楽園」などの主要人物を演じた他、多くの役を演じ、1935年のクリフォード・オデッツ作「レクティーを待ちながら」ではオデッツと共同演出し、評論家に絶賛された。 マイズナー氏はその頃から、演技とは「想像上の状況に真実に生きる能力」だと確信し、彼は「他の俳優たちと、最も信用できる舞台を分かち合う事は、自分で一つのキャラクターを創りだす事と同様に重要であり、“他の役者のほうが自分より大事なのだ”と言われることは、俳優にとって苦い薬を無理矢理飲まされるようなものだろう、しかし、これは真実なのだよ」という。 また、1935年からはネイバフット・プレイハウスで教師となり、翌年同校の教師長となり、指導するようになった。 その後も数々の優れた舞台や映画に出演するが、1964年からは教師に専念した。 彼は1990年にアメリカンマスターというTV番組(PBS局)で、「演劇の最高の秘密」として紹介されました。そのインタビューで彼はこう答えました「私のメソッドは、グループ・シアターの中で、心を打ち込んで学んだ指針となる原則を、強化するように作られている。 その原則とは、“芸術は人間の経験を表現するものだ”ということだ。 私はこの原則を決して放棄したことはないし、これからも放棄しない。」 さらにこの番組のことはTVジャーナルという雑誌でも紹介されました。 ネイバフット・プレイハウスは、ニューヨークのマンハッタン1番街54丁目にある、赤レンガの建物で、教室には標語として「考える前に行動しろ」「1オンスの行動は、1ポンドの言葉と同じだ」というのが額に入って揚げられている。 そこで行われる彼のレッスンは、二人一組の即興であり、お互いが向き合い、“どう感じるか”という一瞬一瞬反応しあう事を主題としている。 その間中彼は、終始何も言わず集中して見守っているが、練習後に初めて二人の生徒に、真実に反応しあっていたかどうかを指摘するものだった。 そうして「演技は、本能と直感によって基礎付けられており、俳優の内面に流れるリズムは、どんな動作よりもコントロールし難いものであるが、もし、シーンを本当に“生きたもの”にしたければ、その微妙なバランスを維持し続けなければならない」とクラスに忠告した。 劇作家デビット・マメットは「マイズナーは、私達が出会った本物の内の一人だ。 彼は、真実に直面しなければならない事を、我々に悟らせてくれた」と語った。 また、「刑事コロンボ」でお馴染みの俳優、ピーター・フォークは「若い頃から、自分が尊敬できる俳優の理想像を追い続けてきた。 彼はそれを与えてくれた」とインタビューで答えた。 1995年2月に放映されたTVシリーズ「ER」に、患者役で出演したのが最後の演技だった。 それについて、「E.T.」や「A.I.」などで有名な映画監督のスティーブン・スピルバークは「これほど長い間、演技を教え続けてきた先生が、遂に生徒達の前で最高の演技を示す事が出来たのを見れたのは、嬉しいね」と語った。 1997年2月2日、半世紀もの間数千人の生徒達に、演技を教え続けてきた偉大な先生は、カリフォルニアのシャーマン・オークスにある自宅で、永遠の眠りについた。 享年92歳であった。 |
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